チャプター1

商売好きのガキ大将

RELAY OF LIFE STOCK【リレー・オブ・ライフ・ストック】 ロゴ
山下 浩二

 私は戦後すぐに誕生した、戦後のガキ大将でした。福岡県の博多はあまり戦争の被害を受けませんでしたが、私は3歳のころに病気で両親を失いました。ですので、写真を見ただけで、両親の記憶はほとんどありません。その後はうちの母方の祖父に一旦引き取られました。ただやんちゃ坊主だったから、祖父が「これはいかん」と思い、禅宗のお寺に預けられました。私は軍団を持ってたから強かったんです。どちらかというと、強い子にぶつかっていきました。「やれ」と言って袋叩きにしたり、それから池に落とし込むとか、落とし穴を作ってどーんと落したり、そういったことをしていましたね。あと、僕は小さいころから手裏剣をならっていたので、石投げの名人だったんです。石を投げたら必ず的に命中したんです。ある時ガキ大将同士で喧嘩したことがあって、遠く離れたところから石を投げたことがありました。それが頭に当たって、相手が頭から血を噴き出したんです。小さい石だったので死ぬことはなかったんですけど、それで謝りにいったこともありました。相手の両親が非常に理解のある人で「喧嘩両成敗だ」と言ってくれましたが、この事件にはとても反省しました。今でも覚えています。あとは、学校の先生もからかっていました。黒板の粉を黒板消しにたくさんつけて、それでドアの間にはさんでおくわけです。それで先生がドアを開けたら頭に落ちて、頭が真っ白になるわけです。それで、「またやったんでしょ、山下君出てきなさい」と言われて、パンパンと叩かれてましたね。



山下 浩二

 でも、やんちゃとはいっても、悪いことばかりしていたのではなく、小学校5年生くらいから軍団を引き連れて色々なアルバイトをしていました。まず一番に、靴磨きのおじさんと知り合って、靴磨きを教えてもらいました。それが商売の始めだと思います。少ない時は100足くらい、多い時は300足くらい磨いていました。当時一足あたり30円から50円くらいもらっていたので、一日で大体1万円から2万円くらい稼いでいました。余ったお金は、当時は戦争孤児とかお弁当を持って来られない人がいたので、そいつらに学費やお弁当をやっていました。当時は弁当を持ってきても弁当に何も入ってないという人間が1割くらいいたんです。弁当箱を持ってくるんですけど、何も入ってないから恥ずかしくて開けられないんです。そういう子は「弁当を持ってきてない」とは言わずに、休み時間になると運動場かどっかに遊びに行ったりするんですが、仲良しになったら「腹が減った」というんです。だから、大きなドカベンみたいなお弁当箱を持ってきて、しゃもじで分けてやっていました。そうすると、その頃はモノがない時代だから皆大喜びで、自然と子分が増えていくんです。また彼らの親も私のことを可愛がってくれました。先ほど私は軍団を持っていると言いましたが、こんな感じで自然と軍団ができていました。


私は親がいなかったから、他人からいじめられたら生きていけないんです。だから小学校高学年の頃からは、他人に可愛がられる方法をから会得していたんだと思います。そして、そうやってできた子分を色んなバイトに振り分けるんです。「魚屋に行け」とか、「八百屋に行け」とか「ガソリンスタンドに行け」とか。それでその売り上げの半分を自分がもらうんです。さらに、自分がもらった売り上げの半分は、親がいない人に分けてやっていました。そうしたら、さらにどんどん子分が増えていって軍団になっていました。それから、大学時代まで色んなバイトをしましたので、それだけ知識が増えました。土方もしましたし、植木屋もしました。ハウスクリーニングや、魚屋でトロ箱を洗ったり、闇市場で食糧を売ったりもしましたね。大学時代では、僕は体育会の剣道部と自動車部に所属していました。15歳のころから自動車に興味を持っていて、「自動車が動くこと」が好きだったんです。その時は1冊か2冊あった自動車の本を買って、自動車の勉強というわけではないけど趣味程度で見ていました。大学の文化祭の時には、自動車会社の営業部にお願いして、自動車を2,30台持って来てもらって、校内に並べて、それで父兄の方とかに見てもらったりもしていました。その頃には、「自分が1日汗を流して、知恵を絞ったことがお金になることは楽しいことだ」と思っていました。「自分で生きていこう」という独立心が強く、それが生きがいという感じでやってきましたね。「男は稼ぐもの」というのは、自分の一つのテーマになりました。

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